第1フェーズ/1950~60年代の20年間

川崎市耐火建築助成公社(市役所内組織)の時代

時代背景

戦災復興末期~高度成長期

  • 人口の急増と住宅難
  • 都市の復興
  • 中心市街地の不燃化

当公社は、1952(昭和27) 年5月に施行された「耐火建築促進法」に基づき、川崎駅から京浜第1国道を含む地域が防火建築帯に指定されたことから市街地の不燃化を促進するとともに住宅供給にも資するために、1953(昭和28) 年12月24日に「財団法人川崎市耐火建築助成公社」として設立されました。

当時の川崎市は1945(昭和20) 年の大空襲で焼け野原になった市街地の復興の途上にあり、戦災復興区画整理事業が進行する中で、多くのバラック建ての木造建物が密集し、また、その一方では地方からエ場労働者が流入するなど、急激な人口増加による深刻な住宅難が続いていました。このため、一刻も早い市街地の再生に向け、耐火建築の促進による市街地の不燃化と住宅の供給が急務となっていましたが、民間の建築市場が十分な供給量を取り戻していない中で、当初、川崎市耐火建築助成公社の事務所は市役所内部に設置され、市職員が兼務職員として自ら業務にあたっていました。このため、理事長以下役員、その他の職員もすべて市の職員といった構成でした。

また、当時は市職員自らが民間耐火建築ビルの設計、監理技術支援を行っていたため、設立当初の4年間に完成した9件の民間耐火建築ビルのうち5件は市職員の設計によるものとなりました。

一方、深刻化した住宅需要に対応するため、木造住宅団地の分譲も行っており、設立当初の5 年間の間に2 団地100戸の木造住宅を供給しました。

その後、1958(昭和33) 年からは、住宅金融公庫等を活用した耐火構造の店舗併用住宅ビルの建設・分譲事業を開始し、都市の不燃化と併せた住宅の供給を推進しました。

この間、国土の復興と経済成長が進み、日本の経済成長率が10%に達して高度成長期に入る中で、民間建築市場も拡大し、川崎市耐火建築助成公社(市役所内組織)として業務を行った約20年間に、川崎区等の市街地を中心に51件(うち設計監理業務支援30件、耐火建築ビル分譲21件)の耐火建築ビルの供給を行うなど、復興期から高度成長期に至る川崎市において、都市の不燃化と住宅の供給に大きく貢献しました。

こうした中、1965(昭和40) 年7月に「地方住宅供給公社法」が制定され、その4年後に「川崎市住宅供給公社」が設立し、事業の重複を避けるために1970(昭和45) 年から川崎市耐火建築助成公社による分譲住宅建設事業が廃止されることとなり、この時代に果たしてきた役割も一段落することとなりました。

主な事業

  • 民間耐火ビル設計監理技術支援業務
  • 耐火建築ビル分譲事業
  • 木造住宅団地分譲事業

川崎市まちづくり局計画部都市計画課所蔵

1950年代の川崎駅周辺

戦災復興区画整理が進む中で大通り沿いには耐火建築物も建設されているが、その後背地には簡易な木造建築物が密集しており、都市の不燃化が急務だった。

川崎市まちづくり局計画部都市計画課所蔵

1950年代のカワモクビルと川崎市役所

公社発足時に職員が設計した最初の民間耐火ビル。隣に見えている市役所本庁舎は、まだ本館の4階が増築されておらず、東館の3階のみが増築された直後なので総3階建てのプロポーションになっている。

銀映ビル・竣工(1958年)時

公社が住宅金融公庫等の融資制度を活用して分譲した最初の耐火分譲ビル。店舗併用住宅となっており、中心市街地の不燃化と住宅供給を目的としていた。

子母口建売住宅団地・竣工(1955年)時

公社設立当初は木造の建売住宅団地の分譲も行った。
当時の深刻な住宅難の状況の中での事業だったと考えられるが、その後、住宅団地の供給は公営住宅や公社・公団住宅に引き継がれることとなり、当公社の事業は民間耐火ビルの供給による市街地の不燃化に集約されることとなった。